東京で子育てをしている地方出身の家庭にとって、避けては通れない「壁」がある。子どもの急な発熱や体調不良だ。
特に、実家が遠方にあり、共働きで頼れる先が限定されている家庭にとって、この事態は単なる「不便」を超え、家庭崩壊の一歩手前まで追い込まれる深刻なリスクとなっている。既存のベビーシッターやファミリーサポート、病児保育といったサービスは存在するものの、それらが「緊急時」という最も支援が必要な瞬間に機能していないという現実がある。
インタビュー概要
今回、東京・葛飾区に住み、2歳と0歳の二児を育てながら現在育休中の荒井さんに、自身の過酷な闘病体験と、都市部ならではの制約、そして既存サービスの構造的な欠陥について詳しく話を聞いた。
① 「知っているが、使えない」制度の限界行政サービス(ファミサポ・病児保育)は、事前登録や書類作成の負担が重く、かつ病児が対象外であったり定員不足であったりと、緊急時の即時性に欠けている。
② 「金銭コスト」よりも重い「心理的コスト」ベビーシッター利用を阻む最大の要因は、費用よりも「知らない人を家に入れる」「信頼関係のない他者に病気の子を預ける」ことへの強い不安である。
③ 信頼のインフラ再構築の必要性解決の鍵は、通い慣れた保育園での病児対応や、最も信頼できる「実家」を頼りやすくするための交通費補助など、心理的・物理的な壁を越える仕組みにある。
荒井 さんインタビュー

「気合で乗り切る」しかない。家族全員が倒れた1ヶ月
── 昨年12月、ご家族全員で体調を崩されたと伺いました。どのような状況だったのでしょうか?
12月の頭から年末まで、ずっと誰かが倒れている状態でした。最初は夫が胃腸炎を持ち帰ってきて、それが0歳の娘にうつり、次に2歳の息子、そして私……。息子は特に重症で、救急車で運ばれるほどでした。
── それは壮絶ですね。その間、どなたかサポートはありましたか?
夫は仕事が休めず、朝の送り迎えを1週間手伝ってくれるのが限界でした。結局、私自身も高熱を出してフラフラになりながら、5分おきに吐く息子の処理をし、同時に0歳の娘の面倒を見る。もう「気合」で乗り切るしかありませんでした。最終的には石川県の実家から母を2日間だけ呼び寄せましたが、母にもうつすわけにはいかず、すぐに帰ってもらいました。
夫婦間の役割分担と「ワンオペ」の現実
── 旦那様は仕事で不在とのことですが、その間の家事や育児の負担はいかがでしたか?
夫は仕事が休めないため、基本的に私が全てを担いました。病気の子どもを看病しながら、日頃の食事作りや洗濯に加え、病気の子のためのお粥など別の食事も用意しなければなりません。
最も大変だったのは寝かしつけです。息子は胃腸炎で吐きまくるため、娘とは別のリビングで寝かせる必要がありました。しかし、子どもたちは「ママがいい」と夫では泣いてしまうため、私が分身しないと二人を同時に寝かしつけられない状況でした。
この時、母が来てくれたことで、母にリビングで息子を見てもらい、私が寝室で娘を寝かしつけるという分業ができ、本当に助かりました。夫は残念ながら、この状況では「戦力としてカウントされない」のが現実です。
既存サービスが「緊急時」に使い物にならない理由
── 行政のファミリーサポート(ファミサポ)や病児保育は検討されなかったのですか?
ファミサポは登録こそしていますが、そもそも葛飾区では「病気の子は見られない」という前提があります。病児保育や病後児保育についても調べましたが、とにかくハードルが高いんです。
まず、家から徒歩圏内に病児保育が一つもありません。あるのは「病後児保育(回復期のみ)」が一つだけ。そこを利用するにも、事前に子どもを連れて窓口へ行き、30分以上の説明を受けて「事前登録」を済ませておく必要があります。
いざ当日になっても、定員が4名程度と極めて少なく、インフルエンザ流行期などはまず空きがありません。
── 登録していても、当日の予約が取れないのですね。
そうです。さらに、利用には医師の診断書が必要だったり、当日も大量の書類を書かなければならなかったり。高熱で泣き叫ぶ子どもを抱えながら、そのプロセスをこなすのは現実的ではありません。
結局、病後児保育は「元気だけど薬を飲んでいる」程度の時にしか使えず、本当に困っている「発熱当日」には機能していないんです。
ベビーシッター利用を阻む「心理的な壁」
── 民間のベビーシッターについてはどうお考えですか?
実は、あまり選択肢に入っていませんでした。補助金が出ることは知っていますが、一番のネックは「精神的なハードル」です。
知らない人を家に入れることへの恐怖心があります。子どもの安全はもちろん、自分がいない間に家の中を物色されるのではないかという不安も拭えません。かといって、自分がいる時に来てもらうのも、他人に気を遣って余計に疲れてしまう。
結局、「知らない人に預けるくらいなら、自分で頑張ったほうがマシ」という結論になってしまいます。
── 性別による抵抗感もありますか?
それは正直、かなりあります。ニュースで見る事故や事件のイメージもあり、男性に預けるのは、特におむつ替えが発生する年齢の娘がいると、100%無理だと思ってしまいます。
女性であっても、やはり「日頃から知っている人」でないと、病気の時に預けるのは怖いです。
求められているのは「マッチング」ではなく「信頼の延長」
── どのような仕組みがあれば、利用したいと思えますか?
一番は、子どもがいつも通っている保育園で、そのまま病児対応をしてくれることです。先生たちは子どもの性格も理解してくれていますし、子ども自身も信頼しています。場所も慣れている。
そういう「信頼関係の延長」にある場所で預かってもらえるのが理想です。
二つ目は、遠方の親を呼び寄せるためのサポートです。例えば、親の交通費を補助してくれる制度があれば、迷わず母を呼べます。知らないシッターさんにお金を払うより、実の親に来てもらうほうが精神的な安心感が全く違います。
── 「信頼できる人」へのアクセスが重要だということですね。
そうです。あとは、一時間1,000円くらいで、スポットで4時間だけ預けられるような、もっとカジュアルで信頼できる仕組みがあれば。会社が福利厚生として、使いにくいシッター補助券ではなく、こうした「緊急時の実家サポート」や「園内病児保育」をサポートしてくれたら、本当に助かります。
誰かの困りごとを、次の事業に変える一歩を踏み出しませんか。
インタビューから見えた構造的課題
荒井さんへのインタビューを通じて見えてきたのは、単なる「サービス不足」ではなく、「生活実態と制度設計の根本的なズレ」です。
1. 「事前性」と「緊急性」の矛盾
行政サービスの多くは「平時の事前登録」を前提としています。しかし、育児の危機は常に突発的です。発熱してから登録に行くことは不可能であり、「準備していない家庭ほど、緊急時に詰む」という構造が生まれています。
また、予防接種や病児保育の際に求められる紙ベースの煩雑な手続きも、緊急時の親の負担を極限まで高めています。
2. 「物理的距離」を増幅させる「経済的コスト」
地方出身者にとって、実家は最強のセーフティネットですが、都市部への移動コスト(新幹線代等)がその機能を阻害しています。
シッターという「新規の関係性」に公金を投じる一方で、既存の「最強の信頼関係(実家)」を活用するための支援が欠落しています。
3. 「家庭内」という密室のストレス
都市部の住環境において、他者を家に入れることは、プライバシーの露出や家事の負担増を意味します。
ベビーシッターという「家庭内派遣型」モデルは、都市部の集合住宅に住む世帯にとって、心理的・物理的な相性が必ずしも良くありません。
荒井さんが「精神的にも体力的にも限界だった」と語るように、「手を止める時間がない」状況で、さらに他人に気を遣う余裕はありません。
周辺環境の考察——なぜ既存サービスは機能しないのか
行政サービスの「硬直性」
ファミサポが「病児不可」である点や、病児保育の定員が極めて少ない点は、制度が「日常の延長」ではなく「例外的な福祉」として設計されていることを示しています。
共働きが標準となった現代において、病児対応は「例外」ではなく「頻発する日常」であり、制度のアップデートが追いついていません。
都市部における「コミュニティの希薄化」
団地内での挨拶が返らないというエピソードに象徴されるように、都市部では「近隣で助け合う」という選択肢が消滅しています。
その空白を埋めるべき行政サービスが「紙ベースの煩雑な手続き」という壁を作っていることが、親の孤独を深めています。
起業家にとっての事業機会
荒井さんの「解像度の高い不満」は、そのまま新しい事業の種となります。
1. 「実家サポート」福利厚生パッケージ
シッター補助券の代わりに、親族の交通費や宿泊費を会社が負担し、かつ親の滞在をスムーズにする(食事手配等)サービス。信頼コストがゼロの状態から支援を開始できるため、利用率と満足度が極めて高くなるはずです。
2. 「園内病児保育」のシェアリング・インフラ
既存の保育園に病児対応機能を付加するための、看護師派遣や事務代行のプラットフォーム。親にとっての「いつもの園」という安心感をレバレッジした解決策です。
3. 育児事務の「完全デジタル化」エージェント
煩雑な紙の書類作成や予約を代行・一元化するアプリ。自治体ごとの複雑なルールを読み解き、スマホ一つで「今すぐ」の手配を完結させる仕組みには、強い需要があります。
おわりに——「生活者」の視点からインフラを問い直す
荒井さんは、制度を知らないわけでも、無関心なわけでもありません。「制度を理解したうえで、それでも使えなかった」という、最も深刻な層の声を代弁しています。
「コーヒー一杯を、一人でゆっくり飲めるだけでいい」。
この切実な願いを叶えるために必要なのは、新しいテクノロジーの誇示ではなく、親が抱える「心理的ハードル」と「物理的制約」を丁寧に取り除く、人間味のあるインフラの再設計です。
【補足データと事例】
都心部で子どもの急病に直面する子育て世帯の現状と課題
東京など都市部では、子どもの突発的な発熱時に既存制度が機能しにくい状況がデータからも浮き彫りになっています。例えば東京都の調査では、病児保育を利用しようとした保護者のうち47.8%が「予約が取れなかった経験がある」と回答しており(*1)、緊急時にサービスにアクセスできないケースが半数近くに上ります。病児保育施設の定員不足や利用までの手続き負担が原因で、結果的に親が仕事を休まざるを得ない現実があります。実際、保育園に通う0歳児は年間平均で19日ほど病気欠席すると報告されており(*2)、この頻度の高い「想定外」の事態に対して現行制度は十分に応えられていません。
経済的・心理的コストの面でも課題は深刻です。ベビーシッター利用支援策などもありますが、日本ではそもそもベビーシッター利用経験のない家庭が約9割に達します(*4)。費用(通常1時間2,000~4,000円程度)の負担もさることながら、他人を自宅に入れることへの抵抗感や、見ず知らずの人に子どもを預ける不安から、利用を控える保護者が多いのが実態です(*4)。東京都が2018年度に一部自治体で実施した低料金(1時間250円)のベビーシッター補助制度でも、利用者はわずか14人にとどまりました(*4)。これは金銭的補助だけでは解決できない「心理的ハードル」の高さを示しています。
また、都市部特有の家族支援ネットワークの希薄さも問題です。実家が遠方にある核家族世帯では、子育て中の8割以上が「実家との距離が子育てに影響する」と感じており(*3)、特に「家族の体調不良時に頼れなかった」ことを最大の困難として挙げる声が多く聞かれます(*3)。実際に徒歩圏内に実家がある人はわずか13%程度で(*3)、多くの共働き世帯が物理的・心理的に孤立しがちな状況に置かれています。遠方の親を呼び寄せる際の交通費や、親が休業する間の収入減といった経済的負担も重く、こうした要因が積み重なって「家庭が回らない」危機が日常的に潜んでいます。
新たな支援モデルの模索と事例
こうした課題に対し、民間や自治体でも新たな支援モデルが模索され始めています。例えば大阪を拠点とする認定NPO法人ノーベルは、訪問型の病児保育サービスを2009年から提供し続けており、当日朝の依頼でも100%預かり可能な体制を整えています。同法人はこれまでに累計15,000件以上の病児保育を無事故で実施し、利用者満足度も95%以上と非常に高い評価を得ています(*5)。また東京都内でも、看護師を常駐させて園内で病児を預かる試みや、企業が従業員の親族来訪費用を補助するといった動きが出始めており、信頼関係の延長線上にあるケアを実現する取り組みが注目されています。こうした実例は、テクノロジーや新規マッチングよりも「信頼」と「馴染み」を軸に据えた支援策が効果を発揮することを示唆しています。
出典一覧(本文対応)
(*1)東京都福祉保健局「子育て支援サービス実態調査」(令和4年度)
(*2)野原ほか「保育園児の病欠頻度に関する研究」(東京女子医科大学雑誌87巻5号, 2017年)
(*3)株式会社エムフロ「実家との距離が育児や暮らしに与える影響」アンケート結果(2025年)
(*4)阿部祐子「約9割が家事・育児サービスの利用しない金額以外の理由とは?」(CHANTO, 2019年6月23日)
(*5)認定NPO法人ノーベル 団体情報(CANPAN, 2023年)
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